たくてんのブログ

長らく放置していたけど、ぼちぼち再開します。主に旅先での出来事や研究関連のことを書いていきます。

お風呂の話

自己紹介

  • 在寮歴:計7年(2009/4 - 2013/3,2017/4 - 2020/3)
  • 学生が終わったので退寮しました。
  • 現在は研究などをして日々過ごしています。

 

はじめに 

 この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2020(その2)の19日目の記事です。

 今年も締め切りに間に合いませんでした。今年は何を書きましょうかね。熊野寮の良かったことを書こうと思いましたが、書くとなぜか悪口につながってしまいましたので、もうすべてを削除しました。仕方がないので風呂の話でも書きます。

 

 熊野寮を出て一番良かったのは、もうシャワー中心の生活をしなくてもいいということだ。風呂に入れる生活は素晴らしい!バブやエモリカなど入浴剤も使える。下宿生活をしている人には既に当然のことなのかもしれない。こうした生活を快適だと考えるのは参照点があまりにもひどいからである。その参照点となっている熊野寮のシャワー室を一つ振り返ってみよう。また、おうちにお風呂があっても銭湯は良いものである。せっかくなのでたまには個人的にお勧めの銭湯でも紹介しておこう。

 

熊野寮のシャワー

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熊野寮男性用シャワー室見取り図(手書き)

 まず熊野寮のシャワー室について知らない人もいるかもしれないので、説明しておこう。なお、この情報は2020年度3月時点のものなので、最新の情報については現役の寮生に尋ねてほしい。上記の図が熊野寮のシャワー室の見取り図である。写真を使いたかったが、探すのがめんどくさいし、わざわざ写真を取りに行くのも億劫なので手書きにしている。まず図の右下の部分で履物を脱ぐようになっている。そして、※となっているのが洗面台である。蛇口が三つあり歯を磨いたり、髪を乾かすことができる。ちなみにここにはドライヤーが2つ用意されているが、一般に市販されているドライヤーは約300人*1が毎日使用することを想定していないので結構な頻度で壊れる。最後に図の①~⑥がシャワーが浴びれるゾーンである。ドアがついていたりついてなかったりする。

 基本的に10円で3分シャワーを浴びることができるが、①では無料で水を浴びることができる。今はシャワーカードなるものがあり、そこに事前チャージをして使う形式だが、昔は10円を投入してシャワーを浴びていた。10円投入時代は定期的に10円玉の回収を行わないとコイン詰まりを起こし、シャワーが使えなくなる事案が散見された(冬場にこれが発生すると悲惨)。また、シャワー室の前に両替機があったのだが、両替の用意などいろいろめんどくさかった(らしい)。シャワー詰まりや両替機のメンテなどの手間を省くため、効率化した結果シャワーカードが導入された。しかし寮生は愚かなので結構な頻度でシャワーカードをなくす。当然シャワーカードをなくすとシャワーを浴びれない。同じ部屋の人や友人に借りればいいのだが、それができない人はどうしていたんだろうか。まさか風呂に入らないという選択をしている人間がいるとは想像したくない。ちなみに筆者は天才なのでシャワーカードにストラップを付け、養生テープに名前を書いたものを貼っていた。こうしておけばなくしても目立つのですぐに帰ってくる。余談であるが、筆者の名前の書いたシャワーカードを拾った人が、「たくてんのだから使ってもいいや」と言っていたのを人づてに聞いたことがある。最近はシャワーカード初回購入時に名前シールを張るようになったので、なくしてもすぐ帰ってくるようになったんじゃなかろうか。しらんけど。

 このシャワー室であるが、夏場は暑く、冬は寒い。世間のおうちでは風呂上りのヒートショックが問題になることがあるけれど、そもそもシャワーを浴びるゾーンも寒いのでヒートショックの心配はない。また熊野寮は大体どこもそうだが、汚い。定期的に清掃員の方が掃除してくれているはずだが、汚い。当然虫もわく。G*2はともかく、ムカデが出た日にはシャワー浴びるのをやめたくなる。特に⑥のシャワーは天井が高く、その天井にはほこりが大量にたまっており、そこからたまに水が降ってくる。かえって汚くなってるんじゃなかろうか。

 ちなみに昔(2000年代中頃?)は熊野寮に浴場があったらしい(男性のみ)。女性寮生の増加により、女性用のものを新設する必要ができたため、それをつぶしてシャワー室を作ったと聞いたことがある。その風呂は清掃が行き届いてなかったのですごく汚かったらしい。シャワー室の汚いのと浴室の汚いのでは大きな違いで、実態としては汚くなりすぎて不衛生だったのでつぶしたんじゃないだろうかとも思っている。そもそも他の寮生が入った風呂に入りたいだろうか。私は入りたくない。

 そんなシャワー中心の生活もつらいものなので、たまに銭湯に行っていた。次は寮生時代(それと現在)行った銭湯について書いていこう。

 

銭湯いろいろ

寮付近

 ①桜湯

 桜湯 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

 神宮丸太町の橋を渡ったところのクリーニング屋の近くにある。レトロな感じがして個人的には好きな銭湯である。古めかしいマッサージ器があるが、意外と悪くない。去年出張帰りとかによく使った。ここは脱衣所と浴室になぜか水槽が置いてあり、金魚なのか鯉なのかがいる。おっさんの裸体を日々見せつけられる鯉の気持ちはどんな感じなのだろうか。

 

②平安湯

 平安湯 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

 吉田東通りにある銭湯。多分寮生が一番よくいく銭湯じゃなかろうか。ここに行くとだいたい誰か寮生にあった。夜中の1時まで開いているので夜型の人間にはありがたいところ。昔は番台のおじさんが愛想のない人だった。いかにおじさんを笑わすかを考えていた寮生もいたんじゃなかろうか。今は息子さんに店主が変わり、Twitterなどでも精力的に広報されているようだ。今年は寮祭の鏡広告とかをやってくれているとのこと。有難いね。

 

③銀座湯syuyokusou

銀座湯 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

  学部生時代によく行った。多分寮から一番近い。昔はおばあさんが番台をやっていたが、その後引退に伴い廃業した(と私は思っている)。今年の2月に息子さんかお孫さんが店主となってリニューアルしている。再開した時に行ったけど、昔のまま中央に浴槽がある独特なスタイルだった。ちなみに私はこの銀座湯に近いらんたんのラーメンが好き。最近行けてないけど。

 

④柳湯

柳湯 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

 寮から南に下ったところにある銭湯。サウナがないのでサウナ目的で行くと悲しい。銭湯の雰囲気がよく、タイルで描かれた平安神宮は圧巻。一度見に行くのがいいと思う。

 

その他(寮から遠いところ)

⑤大黒湯

大黒湯 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

 祇園の居酒屋さんでバイトしてた時にバイト帰りにたまに行ってた。八坂通りをさらに南に下ったところにある。昔は朝の5時くらいまでやってたと思うけど、今見たら25時までになってた。場所柄舞妓さん・芸子さんも来るらしい。私は男湯なので関係はないが。

 

⑥社湯

社湯 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

 

 地下鉄で太秦駅まで行くとすぐである。すごく広い。なぜかプールみたいな椅子がある。土日祝日は朝から営業しているので、朝ぶろに入りたいならいいかもしれない(しかし寮から遠い)。

 

⑦長者湯

内観写真

 長者湯 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

 ここもまた古めかしい。堀川通を少し西に入ったところにある。ここも柳湯みたいにタイル絵がある(金閣)。なぜか銭湯オリジナルグッズが売っている。引っ越してアクセスが良くなったので、最近はよく行く。脱衣所の窓の外に小さな池があり、鯉がいる。

 

⑧衣笠温泉

衣笠温泉 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

 冷凍サウナなるものがある珍しい銭湯。かなり寒かった。もちろん普通のサウナもあるので交互に入るのがいいのかもしれない。場所が白梅町の近くなので寮から行こうと思ったら結構大変かもしれない。北野天満宮に観光に行くついでに入るとかがいいのだろうか。

 

⑨船岡温泉

船岡温泉 | 【公式】京都銭湯 京都の銭湯100軒以上をご紹介 (1010.kyoto)

 見た目はごついが普通の銭湯である。露天風呂があるのが特徴だろうか。内装も凝っているので京都にいる間に一度くらいは行ってみるのがいいかもしれない。

 

まとめ

 他にも行ったことあるところを書こうと思ったのだが、個人的に良かった(記憶に残っている)銭湯はこのあたりだろうか。誰向けの記事なのかよくわからなくなってきたが、まぁいいや。京都の銭湯はいろいろ個性的なので京都にいるうちに色々回ってみるのもいいかもしれない。

 

余談

 熊野寮のつらいところの一つが、お風呂環境であった。他にもいろいろあるのだが強いてもう一点あげるとすると、特定思想にいやおうなく巻き込まれることであると思う(別に〇核だけじゃない)。昔私の指導教官に「ノンポリの学生が長く住むのはつらいところだろう」といわれたことがある。それはそうだと思う。政治思想がどうこうというのもそうだし、やり方が気に食わない。そういうことはよくあった。(※つづきは検閲により削除されました。)政治思想として納得できないもの・明らかに短慮な政治活動ごっこそんなことに付き合わなくてはならないのはストレスであることは間違いない。また、大多数の無関心層のいい加減な意思表明(とりあえず賛成しておけばいいんでしょみたいな)のも無責任すぎて腹が立った。

 一例として、一昨年だったか、放学処分された元学生が大学に不法侵入したとかで逮捕された。その時に逮捕に抗議した学生がこれまた処分されたときに、寮として抗議文を出すとか出さないかとかでもめた(2019年10月18日熊野寮生3名に対する無期停学処分の撤回を求める声明)。そもそも不法侵入した元学生が処分された原因も本人にあり、私個人としては処分されてもしかたないと思っている。2015年だったか、吉田南の一共を某団体がバリケードで封鎖した。それが処分された理由の一つだった。正直なところ自業自得だと思っている。あれの何が対話を求めたりする姿勢なんですかね?理解できない。そしてそれをかばって抗議するのは個人の政治活動であって、正直どうでもいい。少なくとも寮として反対してやらなくてはいけないものではない。そうした個人の政治活動に寮を利用されるのは我慢ならないよね。

 そんなストレスたくさんの寮生活の乗り切るためにも、たまには銭湯に行くのはいいんじゃないかな。しらんけど。

 

 そういえば今年は時計台に登ったそうで。時計台に登るのは面白そう。それは分かる。ただ「なぜ京大熊野寮は時計台に登ったのか」に書いてあるような対話を求めるために登ったというのは意味が分からない。高校生にもわかると書いてあるけど、意味が分からない。今熊野寮に住んでいる人はこれが分かるのだろうか。

 

*1:寮生数450人でその2/3が男性であると仮定している

*2:ゴキブリ

雑記ー熊野寮に7年くらい住んでみた感想

 自己紹介

  • 所属:大学院生(D3)
  • 在寮歴:計7年目(2009/4 - 2013/3,2017/4 - 2020/3(予定))

はじめに

この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2019の21日目の記事です。

締切に間に合うように書こうと思っていたけれど、気が付いたら締め切りを過ぎていました。年末のドタバタで時間が取れなかったけどようやく少し時間に余裕が出たので書きました。もう少しきちんと書きたかったけれど、きちんと書くとそれは雑記ではない気がするので勢いで書きます。

 

これは京都大学に入学してうっかり熊野寮に住んでしまい、博士課程まで行ったのに再度熊野寮に戻ってきてしまった、そんな私のお話。

 

第一次入寮期を振り返って

そもそもなんで熊野寮に入ろうと思ったんだろうか。あんまりよく覚えていないけれど、確か下宿代を少しでも抑えたいとかそんな感じの、ありきたりの動機だったように思う。

 

入寮当初はいろいろと衝撃的だった。

例えば、ここは学生寮のはずなのに見るからに10代、20代の学生ではなさそうな感じの人がいたり*1、よくわからない出禁者の張り紙が張ってあったり*2、活動家がどうのこうの言ってるし、建物に落書きと張り紙*3が多いし、汚いし*4、どうしようもないところだと思った(そしてそれは今も思っている)。

 

ただ一週間もしないうちに慣れた。なじみすぎた。

この寮の人間は不思議なもので、毎年一定数ものすごい勢いで寮に適応し、自治活動なる卑猥な活動を行う輩が発生する。私もその一人だった*5

部会の運営、寮祭の準備、寮内の雑事の対応、学内での交渉、団体交渉、、、何が楽しかったのかはいまいちよくわからない。別に誰がほめてくれるわけでもなし、何かスキルがつくわけでもなし。大学の講義に行ったり行かなかったりしながら、一日の大半を寮内で過ごした。

最近は大分ましになった気はするけど、夜通し会議をしたりすることもあった。話は堂々巡りするし、何も決まらないしでろくなことはない。でも多分、そういうのも楽しかったんだろうと思う。

当時は友人も多くいて、彼ら彼女らととりとめのない話をすることも楽しかったように思う。今も交流のある人も何人かいるけれど、その多くは今はどこで何をやっているかわからない。さみしい気もするけど、案外そんなものなのかもしれない。

 

第一次入寮期の大きな出来事は何だろうか?副学長と団体交渉をしたことだろうか?建て替え工事があったことだろうか?

同じ時期に在寮していた人の中で、思うところはいろいろあるだろうけれど、私の中で一番大きな出来事は、2回生の冬ごろに当時C1人フロアをまるっと使っていたアフガニスタン人のおじいさんが亡くなって、C1の開拓を行ったことだと思う。

そのアフガニスタン人のおじいさん(以下、B氏と呼ぶ)は聞くところによると、もともと在野の研究者をやっていた人で、母国の情勢の悪化により、帰国困難となり、寮生が大臣と掛け合って、国のお墨付きを得て熊野のひとフロアを占領していたらしい。このB氏はなかなかの収集癖があり、新聞紙などを廊下の両サイドに天井まで積み重ねていた。そのため、C棟一階の廊下は人が一人通るのがやっと、そんな状況だった。また、B氏の料理はなかなかえげつないもので、なぜか常に腐りかけの肉を調理していた。そのため、C棟の一階付近は、夕方になるとおぞましい臭いが立ち込めていた。今に至るまでそれを超える悪臭を嗅いだことはない*6

さてそのB氏、私が二回生の冬に亡くなられてしまった。ある日の夕方、B氏の支援者を名乗る2人の男性が寮を訪れ、B氏と数日連絡がつかない、心配だから部屋まで連れて行ってくれと言う。当時、事務室でよく作業をしていたため、そこにいた私とたまたま通りがかった先輩のH氏の二人で彼の部屋へ行ったところ、B氏が亡くなっているのを発見した。それまで、人の死というものに向き合ったことがなかったし、まさか寮内で遭遇するとはつゆにも思っていなかったので、衝撃であった。その後、B氏のお葬式の手続きなどは先輩のH氏を筆頭に行われた。正直、頼もしいと思った。私には、できなかったと思う。

それからしばらくして、C1開拓計画が始まった。当時入寮してくる学生も徐々に増えつつあったので、そのキャパシティの確保のためもあり、住める部屋を一つでも増やそうということが目的であった*7。B氏が溜めにためた新聞紙や謎の家具研究資料(?)などを片付けるのに一、二か月くらいかかったように思う。大変な作業であった。その作業がひと段落ついたころ、有志がC1に住み始めた。確か基本的には移動しても寮内の仕事をしなくなることがないように、極力寮内の作業に協力的な人が移動するようにしていたはずである(多分)。現状、C棟の下の方で仕事をやる人が多くなく、困っているとかいう話を聞いて少し悲しいのはこういう話もあったりする。

 

第一次入寮期の話はこれぐらいにしておこう。

私はその後、4回生の時に就職がうまくいかなかったりして留年することにしたが、退寮することにした。なぜこの時退寮することにしたのかはまた機会があれば別の時に書く。

 

第二次入寮期(現在)のお話

戻ってきた。博士課程に進学するタイミングで復寮した。

戻ってきた理由とそれまで戻ってこなかった理由については、長くなるので割愛することにして、最近の話を書こう。

 

第一次入寮期とは異なり、戻ってくるにあたって、寮の汚さとか学生っぽくない人の存在とかは知ってはいたけれど、悪化していた。前者は輪をかけてきたなくなっていたし(というか物が増えたんだ!)、後者は新しい学生っぽくない人がいるしで、多少困惑した。

あと、昔より学生がお金持っているような気もした。意外と皆さんいいものを持っていらっしゃる。これは喜ばしいことなのかもしれない。

他に相違点としては、議論が長くなるのを嫌悪する傾向が強まったこと、そもそもそんなに議論したがらないこと、厨房員さんがほとんど新しい人に変わったことだろうか。同期の吉田寮生(まだいる)に「浦島太郎になった気分かww」とか言われたけど、本当にそんな気がした。

さすがに昔に比べると、寮にコミットする割合は少なからず減ったように思う。体力も時間も昔ほどはないんや。

 

戻ってくるにあたって、上記でボロカスに書いた印刷室に入ることになってしまった。これはなかなか厄介なところで、住民票をはじめとする公的な書類にいちいち住所:旧印刷室と書かれてしまう。住所確認をされるたびに「え、印刷室ですか?」とか聞かれる。ほっといてくれ。

 

さすがにほとんど私の第一次入寮期にいた人たちはいなくなってしまった*8。ただ、かといって誰とも話さず一人さみしい集団生活を送っているかというとそういうわけではない。幸か不幸か話しかけてくれる人たちはいるし、知り合いの数も第一次入寮期と変わらないくらいいるんじゃないだろうか。これは皆さんに感謝するべきところである。

 

まとめ

結局、熊野寮に七年も住んでどう思ったのか感想をまとめよう。

  • やっぱり建物は汚い。
  • 思想的に相いれない人やインモラルな人がいて、それでいいのかと思ってイライラする。
  • 会議が長い。
  • なんやかんや対処しなくてはいけないことが多い。
  • おうちに帰っても仕事がある。
  • 年齢に関係なく友達はできる。
  • ハマれば楽しい。

みたいな感じだろうか。文章力がないから、本当にただの雑記になってしまった。

 

上記のまとめがすごいネガティブな要素ばっかりになってしまったけれど、「じゃああなたはこの七年間楽しくなかったの?」と聞かれるとそんなことはない。楽しかったと思う。ただ語彙力と表現力が追い付いていないだけである。

建物が汚いのは何とかしよう。

思想的に相いれない人やインモラルな人がいたら、違う考え方をもった人と接する機会である。そういう人もいることを理解し学習しよう。人間いろいろ。

会議が長いのは会議を短くする工夫をしよう。今年の一回生の発送は面白かった。会議を短く、効率的に進める方法なんてこれまで誰もまじめにやってこなかった。すごいことだ!

対処しないといけないことが多いとかおうちに帰ってもお仕事があるとか、気は休まらないけれど、意外とやってて達成感はある。スキルが身につかないって書いたけれども、それによってできるようになったこともある。今の研究活動で使ってるスキルの一部だって熊野での業務処理によって身についたものだと信じたい。

 

あと2か月ほどで、長年住み続けた熊野寮ともオサラバである。ようやくここから出られるんだという気持ち半分、もう出ていかなくてはいけないんだという悲しさ半分である。同期や先輩と過ごした四年間も楽しかったけれど、なんやかんや戻ってきてからもたのしかった。今の一回生や二回生を見ていると世代が違うということもあるけれど、考え方が違ってそれがまた新鮮で楽しかったと思う。泣いても笑ってもあと2か月ほどで出ていく。最後くらい悔いの無いように過ごしていきたいな。

*1:注:この人はまだいる

*2:注:この人は今年か去年かにまた来た。12年ぶりくらいに現れたことになるらしい

*3:ボテッカーという。多分日常用語では使わない

*4:ここに脚注を書きます当然今も汚い。さらに、一気に物が増えたからたちが悪い

*5:今もはたから見れば私もそんな輩の一人かもしれない

*6:2,3か月前にA棟1階の廊下付近でそれに類似する臭いがしていたため、某T氏にその旨を伝え掃除してもらったところネズミの死骸が複数発見された。そんな臭い

*7:同時期に耐震補強の工事があり、このC1開拓のどさくさに紛れて、工事中空になっていた印刷室に勝手に住み始めたことは今でも恨んでいる。おかげで印刷機はあっちに行ったりこっちに行ったりで最終的に委員会室に押しやられてしまった。委員会室が汚く印刷機を使いにくい。また、紙が廊下に押しやられていて、非常によろしくない

*8:注:ほとんどである。まだ10人近くはいる